高知海軍航空隊通信所跡の調査
高知海軍航空隊とは、現在の高知龍馬空港の前身であり、戦時中の1941年1月から旧三島村の約7割にあたる約220haの面積を強制的に接収して、飛行場および関連施設を建設しました。
戦後、滑走路部分は、高知龍馬空港になりましたが、南の用地と誘導路は農民たちに戻され、田畑の復元に努めました。しかし、頑丈に造られた掩体7基は壊されずに残り、現在、南国市の史跡として平和教材に活かされています。
北の兵舎等は、高知大学農学部となり、現在も戦時中の遺構がいくつか残されています。その中の1つが耐弾通信所跡で、農学部北東隅にある広さ4500m2の高まりの地下には、4基が非常に良好な保存状態で残されています。
高知大学の駐車場開発計画を受け、駐車場予定地(南国市物部乙200)が埋蔵文化財包蔵地になっており、施設の配置や残存状態等の内容確認のために、南国市教育委員会が平成25年6月24日から7月8日まで試掘確認調査を実施しました。
今回の主な調査成果
今回の調査で、全部で4基の通信所の位置と内容が判明しました。
高知海軍航空隊通信所跡は、入口以外からは土砂の流入も少なく、戦後入口が閉ざされてからほとんど改変されることなく、良好な保存状態のまま残されています。
部屋割りが通信所ごとに異なっていることや、通信所をつなぐ連絡通路の存在が明らかになるなど、これまでの軍の資料で確認できなかった詳細な情報を得ることもできました。
通信所1(全長19.85m)
4部屋に分かれており、一番広い部屋は長さ9.8mあります。
ガラス瓶や鍋等が多く出土し、飯ごうには、「昭一七」(昭和17年)や「イワツカ」といった文字が読めます。
これまでの研究から、短波送信機が置かれていたことが分かっています。
通信所2(残存部全長8.8m)
北半分のみが残されており、南側には、通信所本体の断面を見ることができます。本体のコンクリートは、厚さ約60cm、鉄筋の直径は2.5cmあります。天井アーチ部の両脇に補強のためのコンクリート壁が付けられています。
内部の部屋の壁には、棚を付けていたL字金具が残されています。
これまでの研究から、耐弾発電所であったことが分かっています。
通信所3(全長19.7m)
中央に長さ13mの広い部屋があり、全部で3部屋に分かれています。
この通信所だけは壁が上塗りされておらず、建設時の型枠の角材やその痕跡がはっきりと残っています。また、部屋の仕切り壁もレンガを積んで作っていることがよく分かり、通信所の建設方法を観察することができます。
通信所4(全長22.7m)
全長は通路含めて22.7mと一番大きく、部屋の数も6部屋と最も多い通信所です。
連絡通路(全長22.7m)
通信所3と4の間は、幅1m、高さ1.8m、長さ26mの連絡通路でつながっています。通信所から約3mの位置に扉跡があります。
高知海軍航空隊通信所跡現地説明会資料は、次のファイルをダウンロードしてご確認ください。
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