南国市の名称について
●なぜ「なんごくし」ではなく「なんこくし」なの?●
昭和33年の夏、高知市の某会議室に明年の合併を予定した、後免町・岡豊村・香長村など関係町村の幹部が集合し会議を開きました。
ペギー葉山さんの「南国土佐をあとにして」が大ヒットし南国土佐の高知が一躍注目を浴びていた、そんな時代のこと。
この会議に出席していたのが、当時後免町の幹部職員として活躍していた元南国市収入役の田岡信雄氏(当時35歳)。
席上、「南国市の呼び方」が議題となり、結果として「みなみのくに」という意味と、「くに」は濁点がないことから、「国」を「ごく」とは呼ばず、「こく」と呼ぶことの見解で一致(田岡氏談)し、したがって「なんこくし」と呼称することが決定したそうです。 (平成10年6月、職員広報「ふぁいと」より)
●市の名称が決まるまで●
昭和34年の南国市発足以前の関係町村の発足や統廃合をみると、まず、昭和17年(1942)7月1日に、日章村が発足しています。同村は田村・立田村及び三島村の大部分が合併したもので、三島村の一部上岡は野市町に編入されました。
昭和28年(1953年)には、町村合併促進法がつくられました。高知県下でも、169ヶ町村を三分の一の約60ヶ町村に合併する計画がたてられ、同31年には長岡郡南部16町村合併を目標に、まず北部地区の後免・長岡・久礼田・上倉・瓶岩・国府の6町村の合併が9月に決定し、後免町の名で新自治体に移行しました。
また、後免町の発足と同時に、南部の大篠・三和・十市・稲生・日章・前浜の6村も合併して香長村をつくりました。
これより先に、昭和29年、岡豊・上倉・瓶岩・久礼田・国府の5ヵ村の合併協議会が生まれ、翌30年に合併の話がほとんどまとまりかけました。が、岡豊村に、高知市との合併論や競馬事業権を持つ利害論などの異議が生まれ、村長や村議会議員の総辞職問題が起こり、この計画は挫折しています。
その後、嶺南16町村合併問題が台頭しましたが、これも立ち消えとなり、結局、香長村と後免町が誕生することになりました。
嶺南17ヶ町村は、町村合併促進法が執行されて以来、関係各地区でも合併に関する調査研究が進められてきましたが、大同合併するまでには至りませんでした。
昭和31年9月30日発足の後免町と香長村以外の、岡豊・大津・介良・野田と、香美郡岩村の各村は、もとのままでした。
ここで翌32年3月、高知県知事から、後免町ほか6ヵ村(香長・岩村・野田・岡豊・介良・大津)は、地勢・交通・産業・経済及び社会的事業が緊密な関係にあるので、基礎的な地方公共団体としての機能の十分な発揮と、住民福祉の増進を図るため、合併の必要を認めるとの勧告がなされました。
昭和33年4月、地方自治法の一部改正によって、市の人口要件に特例が設けられたことなどが大きな原因となって、合併に関する調査研究や討議の気運が、知事の勧告とも相まってますます高まりました。
もちろん、合併賛成論ばかりではありませんでした。賛否両論に分かれて、紆余曲折がありました。そして、結局、大津・介良両村を除いた関係5ヵ町村(後免町・香長村・野田村・岡豊村・岩村)及び介良村の一部伊達野地区は、地域社会の発展と住民の福祉増進のためには合併して、市制を施行することが最も適当であるとして、関係各町村議会の議決を経て、市制執行申請書を提出することになったのです。
なお、この合併により生まれる市は、地方自治体法第8条の規定による要件を、次のように満たしていました。
1.人口3万人以上の要件
○昭和33年7月1日現在4万6370人
2.市街地を形成する連たん戸数が全戸数の6割以上の要件
○戸数 9488戸
○連たん戸数 5805戸
○「全戸数」に対する「連たん戸数」の割合 61%
3.都市的事態に従事する者及びその者と同一世帯に属する者の数が、全人口の6割以上
○人口 4万6370人
○都市的事態に従事する者 2万7915人
○「人口」に対する「都市的事態に従事する者」の場合 60.2%
新しく発足する市の名称としては、城東市・嶺南市・後免市・香長市・南国市・南海市・黒潮市などが挙がりました。
これらをいろいろ検討した結果、「本市は高知県の中央部香長平野に位置し、黒潮に洗われて大気は明澄、気候は温暖で、 水稲の二期作・促成園芸などは南国独特のものとして全国にその名が知られている」「住民は南国特有の気風を受け剛気・闊達・明朗で、南国人の特性を持っている」「呼びやすく、書きやすい」・・・・・などの点から、本市の飛躍的発展を期して『南国市』と決定し、昭和34年(1959)10月1日に誕生したのです。
一方、新市の事務所は、市の地理的・経済的・文化的な中心として将来の発展が約束されている旧後免町付近に新庁舎を建築する予定のもとに、後免町東崎分1355番地の1に置くことにしました。