土佐日記をつづった「紀貫之」
担当 : 生涯学習課 / 掲載日 : 2005/10/01
【つらゆき時代まつり】
奈良時代から平安時代にかけて数百年にわたり、現在の比江に国衙(こくが)が置かれていました。古今和歌集の選者も務めた王朝屈指の歌人、紀貫之は、第48代土佐国司として赴任しました。貫之が4年間の任期を終え、京都への帰途についたのは、承平4年(934年)12月21日。
「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとて、すなるなり。」
この有名な書き出しで始まる土佐日記には、ユーモラスな土佐の人々が登場します。懐かしの京に戻ったのは翌年2月16日のことで、実に55日もの長い日数を費やした船旅でした。
「すむたちよりいでて、ふねにのるべきところへわたる」
南国市比江の田んぼの中、疎林の間に四基の石碑が立っています。紀貫之邸跡は、国司の官舎があったところです。文面には延長8年(930年)に貫之が土佐に赴任してから4年をこの地に住み、国司として優れた行政で慕われた、と簡潔に記してあります。また、貫之邸跡の入口左手に建つ高浜虚子の句碑には、
「 土佐日記ふところにありちる桜 」と記されています。
見渡す限り広々とした田園。国分寺のこんもりとした森、その向こうははるかに岡豊山。長曽我部元親が岡豊城から浦戸に城を移すまで、千年近くもこの土地が「土佐の都」でした。不思議なほど静まりかえった世界があります。
南国市は、貫之船出の港・大湊の公園、比江の国府跡や紀貫之邸跡など、ロマンあふれる歴史遺産が豊富に残る土佐の中心地「まほろば」なのです。