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南国市の歴史

ページID:4438担当 : 生涯学習課掲載日 : 2025/02/14

南国市の歴史の流れ

田村遺跡

【田村遺跡群の発掘調査】

 

南国市は高知県の中央部にあり、県内最大の肥沃な平野部を有し、県内で最も遺跡の密集する地域です。
旧石器時代には、奥谷南遺跡があります。ナイフ形石器や細石刃などの多数の石器が見つかっており、この地域で最も古い人類の生活の痕跡と言えます。

弥生時代には大規模拠点集落である田村遺跡群があることから、土佐の稲作の発祥の地といわれています。続く古墳時代には、小丘陵の山上、山麓に古墳が密集し、その数は80基に及びます。

古代には、比江に土佐国衙(こくが)が置かれ、政治、文化の中心として栄えました。周辺には、比江廃寺、土佐国分寺、野中廃寺が置かれ、仏教文化の栄華を感じることができます。平安時代に国司紀貫之が比江に来任したのは延長8年(930年)で承平4年 (934年)に任を終え、京へ帰る際に記した「土佐日記」 は文学的評価の高い紀行文として知られています。

古代から中世へと時代が移り、1380年頃に細川頼益が土佐国守護代となると、田村が政治、経済、文化の中心となり、さらに戦国時代、長宗我部元親が天正 2 年(1574年)に土佐を平定すると、政治の中心は岡豊城に移りました。

江戸時代に入り、山内二代目藩主のとき、奉行職にあった野中兼山は物部川を改修し、舟入川を交通手段とする商業地域をつくり、そこに入植したものには土地を与え、租税や諸役を免除し、新しい町をつくりました。 この町は諸役御免の町「御免町」と呼ばれ、のちに「後免町」として町の中心市街地を形成していきます。
江戸時代後半には、武市利右衛門が「オナガドリ」を作り出し、その志を受け継いだ愛鶏家が現在も飼育しており、世界に類を見ない尾の長い鶏として国の特別天然記念物に指定されています。

太平洋戦争中には、高知海軍航空隊が置かれ、戦争末期には、特攻隊基地として利用され、周辺には多数の戦争遺跡が残されています。航空隊滑走路は現在の高知空港に、北の兵舎跡は高知大学農学部キャンパスと高知工業高等専門学校に利用されています。

このように、南国市は「歴史の宝庫」であり、また、その恵まれた自然と環境を生かして、近代以降は、米の二期作と施設園芸を中心に発展しました。昭 和31年9月 30日、町村合併促進法に基づき、後免町、上倉村、瓶岩村、久礼田村、国府村、長岡村を廃して後免町を。大篠村、稲生村、十市村、三和村、前浜村、日章村 を廃して、香長村を設置しました。さらに地勢、交通、産業、経済及び社会的関係が密接な隣接5ヶ町村、後免町、香長村、野田村、岡豊村、岩村が大同合併し て昭和34年10月1日市制を施行し、「南国市(なんこくし)」が誕生しました。

 

前浜掩体(えんたい)群

 

前浜掩体(えんたい)群

【掩体】

 

掩体は第二次世界大戦中に使用された航空機格納庫であり、高知空港南の田園地帯に鉄筋コンクリート製の7基が点在しています。反戦への願いを込めて今もなお、そのまま保存されています。

 

 

土佐日記をつづった「紀貫之」

 

つらゆき時代まつり

【つらゆき時代まつり】

 

奈良時代から平安時代にかけて数百年にわたり、現在の比江に国衙(こくが)が置かれていました。古今和歌集の選者も務めた王朝屈指の歌人、紀貫之は、第 48代土佐国司として赴任しました。

 

貫之が4年間の任期を終え、京都への帰途についたのは、承平4年(934年)12月21日。

「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとて、すなるなり。」

南国市比江の田んぼの中、疎林の間に四基の石碑が立っています。紀貫之邸跡は、国司の官舎があったところです。文面には 延長8年(930年)に貫之が土佐に赴任してから4年をこの地に住み、国司として優れた行政で慕われた、と簡潔に記してあります。また、貫之邸跡の入口左 手に建つ高浜虚子の句碑には、

「土佐日記ふところにありちる桜」と記されています。

見渡す限り広々とした田園。国分寺のこんもりとした森、その向こうははるかに岡豊山。長曽我部元親が岡豊城から浦戸に城を移すまで、千年近くもこの土地が「土佐の都」でした。不思議なほど静まりかえった世界があります。

南国市は、貫之船出の港・大湊の公園、比江の国府跡や紀貫之邸跡など、ロマンあふれる歴史遺産が豊富に残る土佐の中心地「まほろば」なのです。

 

「からくり半蔵」として知られる細川半蔵

 

茶運び人形

【茶運び人形】

 

細川半蔵は第5代細川理太右衛門の長男として、父の死後跡を継ぎ郷士となりました。半蔵は高岡郡葉山村の天文・暦学者片岡直次郎に師事し、天文学、理学、技術、発明などに長じた万能科学者・技術者です。

 

寛政6年(1794)江戸幕府で幕府改暦委員に任命され、寛政8年(1796)からくり工学書ともいわれる世界に誇る「機巧図彙」(きこうずい)首・上・下の3巻を著しました。

からくりがとみに有名になったとき、半蔵はからくりの果たし合いに挑戦されました。半蔵が作ったネズミからくりが、相手の作った猫のからくりを食い殺したという逸話があります。

 



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