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歴史・文化

担当 : 生涯学習課 / 掲載日 : 2017/04/10

市民の個性がまちの「文化」を築いています

田村遺跡

【田村遺跡】


南国市は高知県の中央部にあり、土佐の稲作の発祥の地といわれています。田村を中心に遺跡が豊富で、古墳は小丘陵の山上、山麓に存在し80基に及びます。

古代律令制度下、比江に国衙(こくが)が置かれ、政治、文化の中心として栄えました。国司紀貫之が比江に来任したのは延長8年(930年)で承平4年 (934年)に任を終え、京へ帰る際に記した「土佐日記」 は文学的評価の高い紀行文として知られています。

古代から中世へと時代が移り、1380年頃に細川頼益が土佐国守護代となると、田村が政治、経済、文化の中心となり、さらに戦国時代、長宗我部元親が天正 2 年(1574年)土佐を平定すると、政治の中心は岡豊に移りました。

江戸時代に入り、山内二代目藩主のとき、奉行職にあった野中兼山は物部川を改修し、舟入川を交通手段とする商業地域をつくり、そこに入植したものには土地 を与え、租税や諸役を免除し、新しい町をつくりました。 この町は諸役御免の町「御免町」と呼ばれ、のちに「後免町」として町の中心市街地を形成していきます。

ひもとけば、当地は価値ある「歴史の宝庫」であり、また、その恵まれた自然と環境を生かして、近代以降は、米の二期作と施設園芸を中心に発展しました。昭 和31年9月 30日、町村合併促進法に基づき、後免町、上倉村、瓶岩村、久礼田村、国府村、長岡村を廃して後免町を。大篠村、稲生村、十市村、三和村、前浜村、日章村 を廃して、香長村を設置しました。さらに地勢、交通、産業、経済及び社会的関係が密接な隣接5ヶ町村、後免町、香長村、野田村、岡豊村、岩村が大同合併し て昭和34年10月1日市制を施行し、「南国市(なんこくし)」が誕生しました。


前浜掩体(えんたい)群

前浜掩体(えんたい)群

【掩体】


第二次世界大戦中に使用された航空機格納庫である掩体が空港近くの田園地帯に点在しています。反戦への願いを込めて今もなお、そのまま保存されています。


土佐日記をつづった「紀貫之」

つらゆき時代まつり

【つらゆき時代まつり】


奈良時代から平安時代にかけて数百年にわたり、現在の比江に国衙(こくが)が置かれていました。古今和歌集の選者も務めた王朝屈指の歌人、紀貫之は、第 48代土佐国司として赴任しました。

貫之が4年間の任期を終え、京都への帰途についたのは、承平4年(934年)12月21日。

「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとて、すなるなり。」

南国市比江の田んぼの中、疎林の間に四基の石碑が立っています。紀貫之邸跡は、国司の官舎があったところです。文面には 延長8年(930年)に貫之が土佐に赴任してから4年をこの地に住み、国司として優れた行政で慕われた、と簡潔に記してあります。また、貫之邸跡の入口左 手に建つ高浜虚子の句碑には、

「土佐日記ふところにありちる桜」と記されています。

見渡す限り広々とした田園。国分寺のこんもりとした森、その向こうははるかに岡豊山。長曽我部元親が岡豊城から浦戸に城を移すまで、千年近くもこの土地が「土佐の都」でした。不思議なほど静まりかえった世界があります。

南国市は、貫之船出の港・大湊の公園、比江の国府跡や紀貫之邸跡など、ロマンあふれる歴史遺産が豊富に残る土佐の中心地「まほろば」なのです。


「からくり半蔵」として知られる細川半蔵

茶運び人形

【茶運び人形】


細川半蔵は第5代細川理太右衛門の長男として、父の死後跡を継ぎ郷士となりました。半蔵は高岡郡葉山村の天文・暦学者片岡直次郎に師事し、天文学、理学、技術、発明などに長じた万能科学者・技術者です。

寛政6年(1794)江戸幕府で幕府改暦委員に任命され、寛政8年(1796)からくり工学書ともいわれる世界に誇る「機巧図彙」(きこうずい)首・上・下の3巻を著しました。

からくりがとみに有名になったとき、半蔵はからくりの果たし合いに挑戦されました。半蔵が作ったネズミからくりが、相手の作った猫のからくりを食い殺したという逸話があります。