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続日本100名城 岡豊城

担当 : 企画課 / 掲載日 : 2018/05/07

岡豊城が続日本100名城にえらばれました


岡豊城 1

 公益財団法人日本城郭協会によって、平成18年の4月6日(城の日)に合わせて、「1.優れた文化財・史跡であること」「2.著名な歴史の舞台であること」「3.時代・地域の代表であること」を基準として「日本の100名城」が選定されました。この時の選考において、本来100名城に入れて当然の城をいくつも落とさざるえなかったため、次の100名城として「続日本の100名城」の選定を行うこととなり、平成29年3月31日に選定され、4月6日(城の日)に発表されました。その中で、岡豊城が180番目の名城に選ばれました。
 岡豊城は四国を代表する戦国時代の武将長宗我部氏の居城として知られています。長宗我部国親が岡豊城を足掛りに土佐の有力大名へと成長し、国親の子・元親が土佐を平定し、さらに四国全土をほぼ統一しました。豊臣秀吉の四国平定で所領を土佐一国に減じられ、元親は天正19年(1591)頃に浦戸城を築いて本拠を移し、岡豊城は廃城となりました。

国指定史跡に認定(平成20年)

 建物(山城)は南北朝時代初期の築城と推定されていますが現存はしておりません。南北朝時代から戦国時代に築かれた城は、白亜の天守や石垣の幅広い水堀はまだなく、険しい地形の山を切り盛りし、さまざまな防御施設を駆使し戦闘的な城を作り上げています。山城は、そこにある自然の地形を最大限に生かして築かれただけに個性豊かな城が多く、歩いてみると戦国時代にタイムスリップしたような歴史の時間が感じられます。
 南側を流れる国分川を天然の堀とし、山頂部の詰を中心に、北東に詰下段、二ノ段、西に三ノ段、四ノ段と曲輪を階段状に配置していました。四ノ段北部では食違い虎口が構えられています。主郭部分を発掘調査に基づいて平面復元展示しており、伝厩跡曲輪などを含めた範囲が岡豊山歴史公園として整備されています。
 また、岡豊城跡の詰に期間限定(平成31年2月末まで)で櫓を上げています。眺望は素晴らしく、太平洋まで見渡せます。ぜひ眺めてみてください。



【詰(本丸)】
 標高97mの山頂にあり石敷遺構や礎石建物跡(復元)なども見つかっています。詰の建物跡の位置や基礎からみると近世城郭の天守の前身ともみられる二層以上の建物があったと考えられています。岡豊城の当時の図面はなく、礎石等よりイメージして櫓が建てられています。


岡豊城2
岡豊城3


【詰下段】
 詰の東に付随する小曲輪で、基礎建物跡一棟や土塁などの遺構が発見されています。詰下段は、堀切に面し作られた土塁や建物跡などからみると二ノ段から詰への出入口を守るために作られた小曲輪であったと考えられています。


岡豊城4


【二ノ段】


岡豊城5


【三ノ段】
石積と礎石建物跡(復元)


岡豊城6


【四ノ段虎口】
 城の入口を虎口と呼び、敵から攻められないような造りになっています。特に、四ノ段北部に入る虎口は、食違い折をもたせ、枡形虎口の構造により防御性が一段と高くなっています。土佐では岡豊城で初めてこの虎口が取り入れられました。


岡豊山7


【伝厩跡曲輪】


岡豊城8
岡豊城9

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